経世瑣言(けいせいさげん)
安岡正篤氏の『経世瑣言』と題する書は、昭和9年から19年にわたって4種類出されている。
「総篇」と呼ぶにふさわしい『経世瑣言』のほぼ全容をうかがうことができる内容となっている。
「瑣言」の「瑣」とは、碧玉の砕かれた片々の意味で、玉片のような輝きをもった文章という義がこめられている。
当時の時局に対し、国家は、個人はどうあらねばならないかについて書かれたものである。
時局的な古さは散見されるものの、時代を超え、読み継がれるべき不易な内容に満ちている。
272 | 文明の過重と自然よりの乖離 |
273 | 食べる物も着る物も次第に自然から離れて行く。 それが人間生活を非常に便利にし、安逸にして行く。 人類を肉体的にも精神的にも弱めて来てしまった。 既に古く西洋がまだそういう文明などを発達させない遥か以前、古典の中に度々こういう言葉が見られる。便利な乗り物は「べつへき(足の不自由な人)の具」だ。人間を足の不自由な者に陥れる。 |
274 | 近代都市世界的都市ともいうべきものの発達と、それに伴う農村の荒廃であります。 |
275 | 「パリはフランスの永遠の化膿する腫物になろうとして居る。かくの如くにして大都市は次第次第にその国を亡ぼしつつある」と。 |
276 | 寧ろ都会というものは驚くべき勢いで没落して行くものであるということが段々分かって来ました。 農村より都会への供給が止まってしまったならば、都会というものは急速に滅亡することがはっきりして来ました。 |
277 | 第三に人口の現象と人間の退化があります。 |
283 | 山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し。 |
291 | 人間を進歩向上せしむるものを文化と謂い、その外に表現せられる道路とか、建築とか、色々の有形的感覚的世界を文明と謂う。 つまり人生の営む造化の働きを内面的に見て文化と謂い、これを外面的に見て文明と謂う。 だから畢竟文明文化というものは形と質との如きものであって、東洋流に言えば質と文、造化の働きが質であり、現象の世界は文である。だから文という字はあやと読み、「かざり」と読む。 より有形的であるから形而下という。それに対して一方形而上である。同じものであるけれども、文明という時には形而下的、文化は形而上的です。 |
292 | それと同じように、吾々の家を造り、郷村を造り、或いは国家を造って行く働きも、その創造力の重荷にならん程度にやって行けば、そこには永遠の平和がある。正しい進歩向上がある。その現象の世界がその創造力の重荷になりだ明日と、次第次第に衰退の色が現れ出すのであります。 文質彬彬(ぶんしつひんぴん) |
294 | 近代文明の特徴を三つ挙げることが出来ます。大都市の出現。発達した機械。分業制度。 |
295 | 金持ちよりも寧ろ貧乏人に物質主義を養う。 それも実はよりよき生活の為よりは寧ろより享楽的な生活の為に外ならない。 |
296 | 近代文明都市人の精神的特徴を亦三つ挙げることができます。 第一、物質主義、享楽主義、拝金主義、功利主義。 第二、人間が弱くなり、感情的にもかぼそくなって、センチメンタリズムとかエモーショナリズムとかいうものになる。 第三、理屈ぽくなる。 理というものは、日本語で言うのが一番よく分かる。「ことわり」という。つまり理というものは物事の分かれることである。それを把握するのが知である。だから知るということは日本語で物分かりという。物が分かれるのである。 自然の世界は事割りである。事が分かれて行くのである。これに相応して人間には物分かりということがある。 物は分かれて行く程はっきりして来るからこれを分明という。木で言うと、丁度一本の根から幹が出て、葉に分かれて行く。事割り過ぎて行き、物分り過ぎて行くとどうなるか。尖端(せんたん)になる。もう分からなくなる。余り物が分かり過ぎると分からなくなる。 尖端的になればなる程根や幹から分かれて来るから生命力が薄くなる。即ち実地から遠くなる。遊離して来る。混乱して来る。面白くなくなって来る。危険になる。だから凡そ理屈っぽい者ほどつまらぬ者はない、面白くない。 |
298 | 本当の好い人間は荒れた山の中から出るだろう。 今は無機的な魂のない機械的生活と化し去った。物質は霊魂を剋して敬虔なる精神は亡んだ。精神文化人は力を内に向ける。物質文明人はこれを外に向ける。外に向けると魂は知らず知らず逃げ去って、今や広さと量の概念が深さと含蓄の欠乏を補わねばならなくなった。文明生活の知識人は専ら外に拡がり、外延の可能性があるのみで、生活の拡がりと量とのみが決定的な要素である。今や質が量に置き換えられた。質がものをいうのではない。量がものをいうようになった。 |
299 | 結局霊魂信仰の頽廃、滅亡を物語って居る。生き生きした信仰心や道徳の消滅こそ人口減少の災いの根である。更に一般的には吾々文化の完全なる皮相化と衰微との原因である。 |
300 | 結局信仰や道徳を失うことが民族の人口を減少する禍根であってそれは総て一切の文化を皮相にして次第次第に衰亡、滅亡せしむるものである。 |
306 | 農村人に感激心があるから信仰心もある。信仰心があるから必ず廉恥心もある。この尊いものをあがめるということ、同時に省みて自ら恥ずるというこの二つの徳は人間道徳の最も根本的なものであります。古来優れた文化を築いた階級の根本精神には皆恥を知るという精神が働いている。武士道とはなんだ、色々説明は出来るが、端的に言えば実に恥を知ることだ。 |
307 | 農村の第三の特徴は生活の自給自足性、即ち生活の独立性に富んで居るということです。 |
308 | これを又迎え入れてやる所に農村の慈悲がある。 農村文化とはどういう内容を持つものであるか。第一農業っであることはいうまでもない。次に健全なる家庭である。それから醇風美俗の郷村、正しい学問をする郷校、郷塾、又正しい信仰、正信の対象である神社仏閣というようなもの。その次に健全なる娯楽、もう一つ失ってならんことは正武ということです。 こういうものが永遠に民族生活国家生活の根底となり、その精力となり、人類発展の段階にどうしても現れる都市文明というものの危険性の救済に当たること、これが農村の最大の使命であります。大東亜戦争は都市と農村との関係を又新たに深省せしむるものであります。 |