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安岡正篤活学選集

石﨑 則夫 さんが3年以上前に追加

①人物を修める
Page 抜粋
17 ある朝、今まで何やらわけがわからず闇の中にうごめいていたものがだんだんわるような気がしてきた時でありました。
私がしみじみ「暁」という字に感じたのは・・・。
一夜深更から調べものをしておりまして、気が付いたときには、もう夜明けになっていました。
ああ、もう夜明けだな、そう思ってしばし窓外に目をやった。
いつか暁が近づいて、周辺がほのぼのと白み、今まで真っ暗闇で何も見えなかった景色が、次第にはっきりと浮き上がって見えてきた。
私はふと「暁」という字を思い出すとともに、この字を「あきらか」と読み、「さとる」と読んだ、古人の心がしみじみとわかるような気がいたしました。
あきらかと言う字はほかにも沢山ありますが、「暁」のあきらかは、夜の暗闇が白々と明けるにつれて、静寂の中に物のあやめ・けじめが見えてくる、物の姿がはっきり見えてくるという意味で、言い換えればそれだけ物事がわかるということであります。
誰でもそうですが、若い時は夢中になって暮らしてきても、ある年齢に達すると、丁度、暁を迎えたように、物事がはっきりしてくるものです。物事がはっきりわかるということは、つまりさとるということです。
38 道徳を簡単に説明します。東洋では、宇宙人生というものを一貫して営んでおり、これがなければ宇宙・人生は成立しないという最も本質的なものを、名付けて「道」と言っておる。人間は、自然━天の一部ですから天人であり、天に基づいているごとく道に基づいているのです。これに対して西洋では、人間を自然━天と対立させて考える。人類の文化も、要するに自然を征服し、変革することにほかならない。だから西洋人は山に登っても、アルプスを征服したとか、ヒマラヤを征服したとかいう言葉を使います。
40 この宇宙生成の本質であり、天地人間を貫くところに創造・変化、いわゆる造化の本質原理である「道」が人間を通じて現れたもの、それを「徳」と言います。道と徳とを結んだのが「道徳」であります。
41 人の人たるゆえんは、実に「道徳」を持っておると言うことことです。そしてそれは「敬」するという心と「恥」ずるという心になって現れる。
44 この「敬」の心が主体となって、一連の精神が発達し、そこにつくり上げらえたのが宗教であります。人間は敬することを知ると、自ずから恥ずるということを知るようになります。そこからつつしむ、いましめる、おそれる、修める、といった真理が発達する。これが宗教に対する道徳の本義です。したがって道徳の中に宗教があり、宗教の中に道徳がある。
47 このように一切を陰陽相待性の法則で解説してゆこうとする学問を「易学」と申します。(中略)したがって陰陽の割合は陰が51%、陽が49%ぐらいが一番適当であります。我々の肉体・生理は、酸とアルカリの相待性活動でバランスを保っておるのでありますが、やはりその割合はアルカリが51%で、酸が49%、つまり弱アルカリ性を保つということが整理の一番の原則であります。それが逆になって酸性化すると病気にになる。例えば胃酸過多になると胃が痛みます。だから昔から酸の字をいたむと読む。
62 四諦(したい:苦諦、集諦、滅諦、道諦) 。心経にも、無苦集滅道とある。
63 四諦に基づいて人生の一つの解釈をしたのが十二因縁であります。1無明→2行→3識→4名色→5六処→6触→7受→8愛→9取→10有→11生→12老死
六処:眼、耳、鼻、舌、身、意の六感ができて六識ができるまでです。まだお腹の中です。
64 十二因縁によって我々の人生が始まるわけですが、その因縁の働きをさらに考察したものが十如是(じゅうにょぜ) です。 お経はこちら
67 この十二因縁から道諦に入り、実践から基本仏教の八正道 が生じるわけです。
77 八正道:正見(しょうけん)、正思惟(しょうしゆい)、正語、正業(しょうごう)、正命(しょうみょう)、正精進(しょうしょうじん)、正念、正定(しょうじょう) 。華厳経には正見を説いて「諸々の妄見を離る」という。
85 この八正道に対して「三学(戒定慧) 」というものがあります。
86 戒定慧の三つに関する学問、これが三学であります。しかし、これを行ずるのは生易しいことではありません。非常な努力がいります。その努力が「五力(ごりき:信力、精進力、念力、定力、慧力) 」であります。
88 更に実践的には「六度(六波羅蜜:布施・持戒・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・禅定(ぜんじょう)・智慧) 」ということが教えられています。(中略)六度、これが人間を済度(さいど)する、また救われる六つの原則であります。
94 それでは人間の本性は何かというと、言うまでもなく特性であります。特性にはいろいろありますが、例えば明るいということがそうです。人間は日月光明から生まれたのですから、明るいということは最も本質であります。また、従って清いとか汚れがないとか、あるいは努めるということも━天地・宇宙は限りない creation(創造)でありますから、我々も常に何者かを生む努力をしなければなりません━大切な特性であります。そのほか、人が人を愛する、人に尽くす、報いる等々、一々数え挙げれば限りがありませんが、いろいろな特性があります。
98 「予言者、郷に容れられず」と申しますが、民衆というものは真実を言われることを好まない。
99 米国をはじめとして文明諸国は4Pの時代であるなどと言われています。 Pills(経口避妊薬)、Pesticide(農薬)、Pollution(汚染)、Psychedelics(幻覚剤)
110 五濁煩悩(ごじょくぼんのう:劫濁(こうじょく)、見濁(けんじょく)、煩悩濁(ぼんのうじょく)、衆生濁(しゅじょうじょく)、命濁(みょうじょく))三毒(貪・瞋・癡(とん・じん・ち))
112 そもそもイデオロギーなどというものは、人間の欲望や意図によって、どうでもつくられるものですから、そんなもので解決するはずはないのです。
五濁の三番目は「煩悩濁」であります。これには三つあって「三毒」などとも申します。「貪(どん)」、むさぼることです。2つ目は「瞋(しん、じん)」。目に角を立てて怒るというのがこの瞋であります。
113 三つ目が「痴」。愚痴、欲望に支配されて理性を失う愚かさが痴です。貪欲、瞋恚(しんい)、愚痴、この三つが人間を鈍らせる三毒というわけであります。
我々には、知と情というものがあります。しかし、知は枝葉末節になるほど愚になります。知は渾然たる全一を分かつ作用に伴って発達するものだからであります。したがって、われわれは知るということをわかると言う。あれは物わかりのよい男だとか、物わかりが悪いとかもいします。知ることは物を「わかつ」ことであります。人間、赤ん坊の時はすべて全一でありますが、だんだん知性が芽生えてくるに従って物を分かつようになる。父母、兄弟、自分についても目口鼻耳というふうに物を分かって認識する。これが物わかり、すなわちことわり事割であります。だから知には物を分かつ、ことわるという働きがある。これは陽性のもので、草木で申しますと、根から幹が伸びて、大枝、小枝と分かれて末梢化してゆく。これがことわり、物わかりで、知性はそれを認識することですから、言い換えれば分かつことに外ならない。分かれてゆくうちに、次第に根元から遠ざかる。いわゆる枝葉末節になって、生命力が希薄になる。生命力が希薄になるということは、真実でなくなることですから、やがて行き詰る。
114 草木で言えば、散りやすくなる、折れやすくなる。だからことわりをそのままに進めてゆくと、だんだんわからなくなるのです。わかるということは、やがてわからなくなる。それを救うのが、結ぶという働きです。
ところがことわり方は、わかるに従って病的になる。そこでやまいだれの中に知を入れて痴(ばか)という字ができている。
115 五濁の第四には「衆生濁」。第五に「命濁」。その他、八でん、十でん。。。
125 儒教というものを一言で申しますと「偉大なる生の学問」ということができる。儒教の一つの代表である「易」に「天地の大徳を生と日う」、「生々是を易と謂う」という有名な話があります。
126 生は天地創造の営みであり、天地の大いなる徳であります。
先哲の語に「人生五計 」ということがあります。
129 そのうちに専門的権威と同時に、専門的愚昧も表裏一体となって、専門家であるがゆえに普通人にはできない大きな誤りを犯す事にもなるわけです。
130 専門的愚昧。明らかに専門による中毒現象であります。
131 零下212度の冷却装置の中に我々の吐く息を吹き込むと、息が液化してカスができます。怒りのカスをモルモットに注射すると、場合によっては瀕死する。
133 人相学。お前の顔に書いてある。
134 凡眼を欺くことは出来るが、達人の心眼は欺けない。天眼 -> 慧眼 -> 法眼 -> 仏眼。『面に見(あらわ)れ背にあふる』孟子
135 元には少なくとも三つの意味がある。全存在の根本という意味ではもと。立体的な意味ではおおいに、時間的にははじめ。
137 人間は単なる肉体の存在から精神的・人格的存在、物的存在から道徳的存在になり、いわば人間そのものが芸術化してまいります。
人間は学問・修養次第で、たとえ木偶(でく)のような人間でも、こういうふうに風韻とか韻致・気韻、あるいは風格というものが出てまいります。趣が出てまいります。
139 人物を観る原則━八観六験
144 人間の五交
149 儒教を一言にして申せば、「修身斉家治国平天下」の学問であり、中国の歴史を通じて常に本流をなす思想・学問であります。活きた学問、いわゆる「活学」をすること。儒教ではそういう意味の学問のことを「時務の学」と申します。すなわち、現代にいかにあるべきか、いかに為すべきかということを時務と言い、一々の事務と異なるものです。
151 共産主義は、儒教から申しますと、最も嫌う権謀術数、即ち兵家の学、具体的に申せば、孫子、呉子、六韜(りくとう)、三略などの現代版が中心をなす考え方・老獪なイデオロギーに長けている。元来、日本人はとかく単純にすぎます。
152 日本と中国の國體、民族性の違いを最も簡単明瞭に表せば「生」と「老」であります。日本は生(き)の文明、生(なま)の民族であるのに対して、向こうは老の文明・老の民族であります。生一本(きいっぽん) vs. 老酒(らおちゅう)
153 『王道蕩蕩(とうとう)』書経。蕩は、1)スケールが大きい事、2)よく練れている、3)とろけるとかくずれてだらしない。「笑中刀あり」「腹中毒あり」は当たりまえ。
154 『兵は詐(さく)をもって立つ』孫子
『利に合して動き、利に合せずして止む』孫子
『分合を以て変を為す者なり』孫子
『要するに相手を詐をもって誤らしめる、あらやる手段で錯誤に陥れる』唐の太宗
158 儒教では、「利は義の和」であり、「義は利の本」であるという牢固(ろうこ)たる信念・見識があります。
『利に放(よ)りに行えば、怨(うらみ)多し。』論語 里仁編第四
159 太初(始)の真理と惟神 維新の道
『人その生の終わりに至らんことを恐るるなかれ。むしろ、いまだかつて始を持たずして終わらんことを恐れよ。』イギリスのニューマン枢機卿
悪い終りになることを恐れてはいけない。それよりも、未だかつて本当の意味の「始」、始めらしい始を持たずに終わってしまうことを恐れよ。
我々は幾つになっても「これから始めるのだ」という気持ちを失ってはならない。
そもそも「おおいなる始の心を以って生きよ」というのは、日本の古神道━惟神の道の大精神でもあります。
一日でいうならば朝・晩、一年でいうならば元旦でありまして、「元旦や神代のことを思はるる」という名句がある。
我々は常に始の気持ち、太始・太初の精神でやってゆくことが大事であります。
161 夫子の道は忠恕のみ。忠とは中する心であります。現実は、いろいろ矛盾・撞着を含んでおります。その矛盾・対立を統一して解決して、少しでも高い次元へ進歩向上させる働きが中で、忠はその心であります。
162 すなわち正邪曲直を明確にして、少しでも高い次元へ持ってゆくことです。この中に折の字を付けて「折中」という語があります。
忠は如 + 心と書く。如は女の領域・分野(口ではなく境界・領域・本分を表す)、言い換えれば造化・自然であります。
その造化の心、限りなき生成化育の働きを持った造化そのままの心を「恕」と言うのです。
何故造化をが女編かというと、女は造化そのものだからです。
163 忠のほうは進歩向上という意味が主体で、包容・含蓄が恕の本意になる。
165 儒教は「仁の道」「仁の教」であると言うことができます。
仁とは天地・自然の生成化育の人間に現れた徳のことを申します。
166 仁術、仁政、仁義=われらいかに為すべきかという規範・規則が義であります。
仁は必ず義と結ぶ。儒教は思想の道であるとともに、仁義の教えでもあります。
この仁義と対立するのが功利でありまして、これは仕事や利益です。
そこで儒教から言うならば、功利をいかに仁義に従わせるかとうことになります。
169 孟子:孔子の理想主義的(Idealistic)な面を主とする。荀子:客観的・実証的・現実的(Realistic)な面を強調。
老荘(黄老):老子と荘子(そうじ)の学問の系統。やがて儒家に対する道家となる。
老荘系統と孔孟(孔孟荀)系統が中国の二大思想である。
170 その後、後漢の時代になってインド仏教思想が入ってまいりまして、やがて儒・仏・道の三教が中国文化の本流をなすようになる。
171 第一に挙げなけねばならぬ最も根本的な要素は「骨力」であります。平たく申せば「元気」。
172 「元」という字は、宇宙的な意味においては大きいとか普遍的という意味です。そこから空間的にはもと、時間的にははじめという意味になる。
一切のもととなりはじめとなる大いなるもの、それが元です。
「気」はエネルギーであり、クリエイトする力、すなわち創造力であります。
従って、元気は一切の造化の本質・根元でありますから、元気があるかないかが人間、人物の一番基本的な要素ということになります。
173 骨力とはよくいったものでありまして、骨は我々の骨格をつくるとともに、身体の中の一番大切な機能であります。
栄養、造血、酸・アルカリの調整、多々のエネルギーの維持といった人間の神秘的な働きはほとんど骨の中で行われているのです。
いわゆる骨と髄、骨髄によって行われているのです
人間の身体・生命の最も大切な機能は身体の中で一番堅固な骨の中にしまい込んでいるわけです。
177 泥亀。
元気から骨力、志気・志操・志節、義理の弁、見識、胆識等が備わって、人間の内容が発達してまいりますと、自ら人間の観察力・判断力が勝れてきます。
つまり人間の「器」が次第にできてくるわけです。
道器。
汝は器なり。
178 器度、器量、度量。
181 「習」は、羽ははね、下の白はしろではなくて、鳥の胴体の象形文字であります。
186 第一煎で茶の中に含まっている糖分すなわち甘みを出す。
第二煎でカフェインの苦みを味わう。
第三煎で渋みを味わう。
「苦言を呈す」と言いますが、その苦言の中に日は本当の甘さがなければなりません。甘さが無ければ真の苦言・苦味ではないのであります。
187 味の至れるものを無味と申しております。この無の味を持った現実に存するものは何かというと言うまでもなく水であります。これを「淡」と申します。
淡は火にかけて極めるという意味であります。
「君子の交は淡として水の如し」
雅号:淡淵、淡窓
190 士大夫三日書を読まざれば則ち理義胸中に交わらず。便ち覚ゆ、面目・憎むべく語言・味なきを
192 呻吟語・大臣の分類
197 孔子・孟子に荀子を加え => 孔孟荀(黄老・こうろう) <=> 老荘に列子を加え => 老荘列
儒に対して道。儒家に対して道家。
また一方、インド仏教も老荘の影響を強く受けまして、ここに禅━禅宗が生まれた。
つまり、黄老・老荘が一方において禅を発達させ、他方において道教を生んだ。
儒道仏の三教が出来上がり、中国文化の三代潮流になる。
198 日本民族の思想・学問を究めようとすれば、どうしても古神道と儒仏道三教の本質を明らかにする必要がある。
200 老子の思想・学問は、儒教系統のRealisticなの胎して、非常に Idealistic な特色がある。
204 大道廃れて仁義あり。
205 人間は健全であれば、仁義も道徳も孝子・忠臣もいらない。いらないのではなく、出てこなくて済むのである。
上士・中士・下士
下士は道を聞いて大いに之を嗤(わら)う。嗤はざれば以って道と為すに足らず。
つまらぬ人間が笑うようでないと本当の道ではない。
206 老子三宝の章
老子曰く「我に三宝有り。持して之を保つ。一に曰く、慈。二に曰く、倹。三に曰く、敢て天下の先と為らず。」
207 老子の後学で、恐らく老子とその最も代表的な後進である荘子と前後する人と思われるのが列子である。
列子の木鶏の逸話
211 荘子夢に胡蝶となる。胡蝶の夢
212 聖人(せいじん)に夢無し。
213 呼は息を吐くこと、吸はすうこと。
普通の人間の呼吸は、吐き出すのは大体肺の中に溜まっている空気の1/6くらいで、残りの5/6底へ沈殿しているのです。
肺が一番活発に活動するのは、朝5~7時までだという。
215 包丁。
『天下に大戒二あり。その一は命なり。その一は義なり。』荘子
「命」は自然と人間とに通ずる創造や変化の動きのことであり、「義」はその命に従って「我如何に為すべきや」と言うことを考え行動することです。「忠」「恕」は一言で言うと宇宙の根本であり、人間にとって欠かせない「仁」であると言われておりますが、「仁」を以ってして競争に利するということは、自ら利する土俵を「仁」により限定しなければなりません。結論は儒教にあるように「利は義の和」であり、「義は利の本である」ということです。もし、あらゆる物財を利を求める為の手段とするならば、「利に放って(欲しいままに)行えば、怨多し」となります。
216 日計・歳計
217 孔孟荀ではちょっと疲れます。老荘になると息をつくと申しますか、救われるようなところがあるのは事実であります。
221 近代社会の特徴の一つである分化現象、分業制度の発達であります。
ところがその専門がだんだん細分化するとともに、やがて人間が部分化し末梢化して、偏屈になるという弊害が出てきたのです。
専門的権威と同時に専門的愚昧というものが現れるようになったわけです。
223 大陸文化の根本を成すものは、中国の孔孟思想と老荘思想の二大思潮でありますが、漢代になると互いに交流して、はっきり区別がつかないくらいに発展してきました。
一方では儒教と老荘を骨髄にし、それに民間の信仰が加わって、道家というものが生まれております。
更に漢代に入って仏教が伝わるに及んで、この仏教っと、特に思想的・超俗的であった老荘思想とが深く影響し合って、道教が非常な発達をいたしました。
同時に仏教もまた大きな影響を与えられて、中国独特の民族的な禅というものが生まれたのであります。
孔子・孟子・荀子による儒家と、老子・荘子による道家とが中国思想の本流でありますが、そこへインド仏教が渡来して新たな交流を生じ、道教と禅を生んだわけであります。
224 最高の権威階級であるバラモンが堕落して、それを反省してウパニシャッドという哲学が生まれました。
ウバニは近くに、シャッドは坐るという意味で、つまりウバニシャッドは経験に待坐するという意味であります。
禅はここから発生したのであり、また経験的に発達したのがヨガでありまして、従ってどちらも「坐」が修行の基本になっております。
225 伊藤教授によると、時々足がしびれて起てなくなるぐらい坐るのは最も良い健康法である。
禅は、坐と同時に拭き掃除を修行の一つとしています。
言い換えれば、人間を元の四つ肢(あし)足の動物の姿に還しているわけです。
234 『どうにもならないことは、忘れることが幸福だ』 ドイツの諺
「忘却は黒いページで、この上に記憶はその輝く文字を記(しる)して、そして読みやすくする。もしそれがことごとく光明であったら、何にも読めはしない」カーライル
我われの人生を輝く文字で記すためには確かに忘却の黒いページを作るがよい。
いかに忘れるか、何を忘れるかの修養(学問や知識を身につけ、人格を磨くこと)は非常に好ましいものである。
237 あんたは、『牛のけつ 』じゃな。
238 七養(しちよう)
時令に順うて以て元気を養ふ。
思慮を少うして以て心気を養ふ。
言語を省いて以て神気を養ふ。
肉慾を寡うして以て腎気を養ふ。
瞋怒を戒めて以て肝気を養ふ。
滋味を薄うして以て胃気を養ふ。
多く史を読みて以て胆気を養ふ。
239 夢想国師(むそうこくし 鎌倉時代末から南北朝時代初期にかけての臨済宗の禅僧)の尊氏評にはこういうのがある 、と。
「尊氏将軍に古(いにしえ)の常の者が及ばぬことが三つある。
第一は如何(いか)なる戦場に臨(のぞ)んでもかつて恐怖の色が見えたことがない。
それから、人に対して物惜しみということがない。
第三に人に対して依怙贔屓(えこひいき)ということのなかった人である」
しかし、この三つぐらいでは将軍としてとりたてていうほどのことでもない。
夢想国師が伝えるには、その上に、「酣宴燗酔(かんえんらんすい)の余といえども一座の工夫をなさずんば眠りにつかず」というのです。
つまりどんなにへべれけになって酔って帰ってきても、必ず一遍(いっぺん)座禅を組み、黙想(もくそう)してからでないと眠らないというんです。
241 四耐四不
「耐 冷」「耐 苦」「耐 煩」「耐 閑」
「冷に耐え、苦に耐え、煩に耐え、閑に耐う」 更に進むと、「四不」と為す
「不激」興奮しない
「不躁」ばたばたしない
「不競」くだらない人間とくだらない競争をしない
「不随」人の後ろから、ノロノロとついて行くことをしない
「冷に耐え、苦に耐え、煩に耐え、閑に耐え、激せず、躁(さわ)がず、競(きそ)わず、随(したが)わず、以て大事をなすべし」
247 健康の三原則
心中常に喜神を含むこと。(神とは深く根本的に指して言った心のことで、どんなに苦しいことに逢っても心のどこか奥の方に喜びを持つということ)
心中絶えず感謝の念を含むこと。
常に陰徳を志すこと。(絶えず人知れず良いことをしていこうと志すこと)
251 呻吟するとは、肚の底から出てくる良心のつぶやきである。
それは人生創造の一つの呟きである。
254 辛の下に木を書くと、「新」の 偏になる。「新」の旁は斤(きん・おのづくり)でおの・まさかりを意味する。
つまりその斧で気を切ると辛い。そこに新しいものが出来るから、そう簡単には出来ない。
だから、それは辛苦である。